2016-2011

" REPETITION AND DIFFERENCE "

" through the dark "

" in the dark "

2016/10

1993年3月佐賀ギャラリーミトヤでの初個展以来、小規模のものも含めれば40回以上の個展を重ねて参りました。初期は珈琲豆袋、石膏地塗り、テンペラ着彩、あるいはパネルに漆喰を塗り、押し型やキズを付けて激しい凹凸を施す技法など、とにかく素材と触感を工夫しておりました。漆喰のアルカリ性に油絵具は不向きなのでアクリル絵具を選択することとなり、この頃以来ずっとアクリル絵具で制作することとなります。その後だんだんと画面の凹凸を無くし、色彩はグレイを経て、1997年から鮮やかに変容しました。2011年3月、黒い画面の“in the dark” シリーズを発表。2011年はなめらかな“レザー”のような質感、2012年は磨き出した“漆”のような硬い質感、2013年は無数の筆触で拡がる、打ち伸ばされた“鉄”のような質感、というように画肌による意味合いの変化を試みました。ただし暗闇の色とは何か、我々は網膜の電気信号を超えて本当の黒を認識できるのか、ということこそ通底する制作意図であります。そして最新作では、相変わらず黒を基調としつつ色彩を重ねております。単調反復と不規則の筆触。出現、増殖、劣化。あえてなぞらえるならば、わたしたちのルーティーンと変化の生活、おおげさに云えば生成劣化を繰り返す細胞。根底に在るのは「無常観」でございます。共通タイトル- REPETITION AND DIFFERENCE - は、映画監督・吉田喜重による小津安二郎の評論にて「反復とずれ」というキーワードがありましたのを英訳して拝借したものです。

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2011年より-in the dark-シリーズを制作、黒を基調とした。物質の「黒(black)」ではなく「暗闇(dark)」。我々は網膜の電気信号を超えて本当の「暗黒」を認識できうるのか、視覚の限界を思考した。新作では、光に見立てて色彩を配し、黒い素地に筆触を単調かつ不均一に重ねた。ふぞろいな繰り返しは私たちそのものではなかろうかと考え、タイトルを- REPETITION AND DIFFERENCE * - とした。

(*映画監督・吉田喜重の言葉「反復とずれ」を英訳)

2014/5

1993年の初個展以来、荒々しいマチエル造りに腐心しておりました。以降だんだんと平面化、近作では布目を消してフルフラットにしております。2011年以降“in the dark” シリーズを3年に渡り発表して参りました。暗闇の色とは何か、我々は網膜の電気信号を超えて本当の黒を認識できるのかという問題提起です。2014年最新作 "through the dark" では、平面性と揺れ動く視覚イメージの効果を目論んでおります。

2013.9

私の近作:「イン・ザ・ダーク」シリーズでは、画肌を平滑にすることで硬質な物体と しての側面を作品に付与させつつ、一方で数多の筆跡を重ねることでやわらかい空間 表現を試みている。硬さとやわらかさの両極、 ソリッドなサーフィスと やわらかい絵 画空間と を共鳴させること、さらに云うならば人間の頼りない「知覚」と厳然たる「環 境」の対比、が私の制作意図である。そして今回、暗闇からやがて立ち現れるものとして、 タイトルを「through the dark(スルー・ザ・ダーク)」とする。

2013/8

「絵画」に、仮想空間や調和などの何かを観ようとするとき、観者の視覚はどこで合焦 しているのか。鏡に映る映像を観るとき、鏡の汚れはさほど気にならなくなることを 合わせて思い出すと興味深い。 画肌を平滑にすることで出来る限り制作意図の「ほつれ」を排除し、冷静に、硬質の 物体として「絵画」を成したいと計っている。 一方、色調について。「黒→顔料(物質性)→平面性」ではなく「暗がり>光量不足、 不確かさ>空間性」として情緒的に見立てている。色彩の初源の「暗闇」。暗くても存 在するもの、つまり人間の頼りない「知覚」と、厳然たる「環境」の対比として。 ということでタイトルは「イン・ザ・ダーク」としている。 だから、私の作品はミニマルに属するものではない。やわらかい絵画空間と ソリッド なサーフィスを共鳴させること、が私の制作意図である。

2012/4/9 (個展の礼状)

くりかえす、このポリリズム的日常をくりかえす右肩下がりの不況で不協和音ながらも同時多発的にそれぞれの夜明けのBEATで寄り添い息づいている限り、孤独なハートの皮膜を突き破ればそこにはまだ捨てたものではない世界があると認知すべきでさもなくば到底無理難題山積の下敷きで窒息、無頼派気取りの放蕩父と泣く母と愛する妻と伸びゆく我が子に囲まれてあるいは囲んである恩師は退官しある恩師は非業の最期を遂げ元教え子は婚姻し子を産み、タイムゼイアーチェインジン:時代は変わると唄ったボブディランもすっかり老け込みビリージョエルはボウルドヘッド、ネットのように広がるのは何もマトリックスだけではなくこの現実世界にも当てはまり、しかしレイヤー状に隠匿された政治経済の実態はインセプションよりも更に深い領域にあり、その先に存在するものは果たして実在なのか甚だ疑問なれど、スターゲイトを超えて確かめる労力と勇気はあるかと自問しても答えはNO、不確かではあるのは結局受容体としての人間の肉体の境界の曖昧さによるものであり、だからこそインザダークにおいては暗がりの限界を露呈する意図が含有されていたのであるがインザダークな作品の前で「ダークシンイチ」と名付けられ超進学校の教え子に金色のヒミツを「綿棒!」と看破されたからには連綿的発展を模索しつつ近年また皆様の御前でお披露目したく目論むわけで縦型をポートレイト、横型をランドスケイプとそれぞれ云うらしいが鑑賞者を睨み返すが如く聳え存在させるためにはもうポートレイトフォーマットしか選択の余地がないことはキューブリックのモノリスがすでに44年前に証明しているわけで平滑サーフィスの向こう側は在りや無しや、来世とか生まれ変わりを信じるロマンチシストよろしく考察しつつ冷めた頭脳と熱い心臓を持ったヒューマニストになるために僕は死にましぇん、天寿を全うするまでは僕は死にましぇんとここに誓います。

2012/3/31

感情、感覚は 脳で処理している。美味しいもの食べても「そういうことか」と虚しく なることさえある。音声として伝わる言葉や視覚で伝わる文字で 涙したりするのも、 よく考えるとヘンなものだと思ったりする。二律背反というか、どっちともとれる、という歯切れの悪い感じが以前から好きなので、 そうしたことを根底:動機として制作してきた。 人間そのものが矛盾している存在だから、か。あるいは 中学生の折、憧れの女教師から貰った文庫本の見返しに「冷めた頭脳と 熱い心臓を持った ヒューマニストになってほしい。」 と万年筆でしたためられていた、それが私の脳に焼印されているから、か ?!単に絵の具で塗られた画面に何かを観ようとするのも考えてみればヘンなものだ、... ただの「表面」にすぎないじゃないか。...というクールさに憧れたりするが、やっぱり 自分はホットより なので奥行きを観たいと思う。やわらかい絵画空間と 硬質のフラット・サーフィスは、共鳴するのか。 暗くて艶のある画面は、到底うまく写真に収まらない、写真ではよく見えない。現場 で直接対峙するしかない、それでもよく見えてこないかもしれない。