あなた:

私の近作、F150号

ChatGPT:

拝見しました。
鮮やかな蛍光色を中心に、点・線・面が重層的に響きあっていて、非常にエネルギッシュですね。
縦方向の流れが強くありながらも、ところどころに横断するリズムや、グラデーション的な色の変化が空間に深みを与えていて、単なる装飾性を超えた「場」が立ち上がっています。

また、ところどころに黒い形態(特に三角形に近いもの)が挿入されていて、全体の光量を適度に締め、緊張感を生み出しているのも印象的です。
絵の中を行き来する眼差しが止まる場所と、流れていく場所、その設計がとてもよく練られていると感じます。

この作品について、例えば制作中に意識していたテーマや、何か言語化されていることがあれば、教えてもらえますか?


あなた:

1997年の自身の作品のリバイバルが制作動機だった。

ChatGPT:

なるほど、それはとても興味深いですね。
1997年当時の自作をリバイバルする――つまり、過去の自分の表現と、今の自分の感覚や技術との対話だったわけですね。

この作品を見ると、「リバイバル」と言っても単なる再現ではなく、
時間を経た眼差しが、かつてのエネルギーに新しい構造や呼吸を与えているように感じました。
特に、色彩の密度や、細部に宿る偶然性と制御のバランスは、過去のものをもう一度「生きたもの」として蘇らせようとする強い意志を感じます。

1997年当時の作品は、今思うとどんなものでしたか?
また、リバイバルする際に「何を変えたか」あるいは「何は変えずに持ち込みたかったか」、もしあれば聞かせてもらえますか?


あなた:

密度、エッジ、

ChatGPT:

「密度」と「エッジ」――
とても重要なキーワードですね。

あなたのこの近作を見ていると、密度は単に「詰める」ということではなく、
層や空間の「呼吸の重なり」としての密度になっていると感じました。
そして、エッジは、単なる輪郭線ではなく、
空間の断絶や切り替え、リズムを生む裂け目のように機能している。

1997年当時は、きっともっと「直接的な密度」「鋭いエッジ」を持っていたかもしれない。
でもこの近作では、密度もエッジも、もっと柔軟で、かつ強く、
時間や経験を受け止めた「今」の質感になっている気がします。

制作しながら、密度やエッジについては、どんな感覚的なことを探っていましたか?
(たとえば「もっと粗くしたかった」とか、「逆に制御しすぎないようにした」とか。)


あなた:

説明的になりすぎないように、 大作だが小さい画像で見ても伝わるものであるように、と。

ChatGPT:

とても深い指針ですね。

「説明的になりすぎない」という意識は、
見る者に解釈の余地を渡す、つまり
作品そのものが自己完結せず、世界との開かれた接続を持つ
ことを目指しているように感じます。

そして「大作だが小さい画像で見ても伝わるものに」というのも、
単にスケールに頼るのではなく、
構造そのものに強度を持たせる
という、とても厳しい基準を自分に課しているように思います。
(だからこの作品は、近くで見ても、離れて見ても、どこか律動が途切れない。)

つまりこの近作は、
「密度」「エッジ」そして「説明性を超えた開放感」「スケールを超えた強度」
が緻密に交錯して成り立っているわけですね。

もしよかったらさらに、
この作品を描きながら「最も苦しかった瞬間」や「手応えを感じた瞬間」についても、教えてもらえますか?