nuance とはフランス語。英語独自でこれに相当する単語はあるのかどうか。
nuance とはフランス語。英語独自でこれに相当する単語はあるのかどうか。
「nuance」は確かにフランス語由来の語で、英語にもそのまま取り入れられていますが、英語独自で完全に同じ意味と感覚をもつ単語は実は存在しません。ただし、いくつかの単語や表現が意味の一部をカバーしています。
たとえば:
subtlety(繊細さ、微妙さ)
→ nuanceの「微妙な違い」という側面を表す語。
shade(色合い、わずかな違い)
→ metaphorとして使うとき、例えば「a shade of meaning」で「意味の微妙な違い」となる。
gradation(徐々の変化)
→ 変化の連続性を表す面では近い。
ただ、「ひとつのものの中に含まれる、言語化しづらいほど微細な違い・陰影・含意」という知覚と知性をまたぐような感覚を、一語で言い表すのは英語でも難しく、やはり「nuance」に頼るのが一番しっくりきます。英語話者も、これをフランス語っぽさを感じながら使っていることが多いです。
このニュアンス(まさに)が失われると、表現が非常にフラットになってしまうので、詩的な文脈やartの批評などでは不可欠ですね。
この語の響き、好きですか?
日本語では機微に相当するとは思う。しかし漢字熟語ではなく大和言葉ではどうだろうか。
とても鋭い視点ですね。「機微」はたしかに「nuance」にかなり近い、繊細で内面的な動きや意味の揺れを含んだ語ですが、大和言葉となると、一語でぴたりとくるものはかなり少ないです。
しかし、いくつか候補や近い表現を挙げてみます:
しみじみ
→ 感情の奥深さや、じわっと感じる細やかさを持ちます。「しみじみと思う」「しみじみと感じる」など。
ひだ(襞)
→ これは本来は物理的な「ひだ」ですが、「心のひだ」「感情のひだ」と比喩的に使われ、非常に繊細な内面の起伏を指します。言葉にはならないような感情の奥行きに触れるときに使われます。
そよ(あるいは「そよぐ」)
→ 軽く風が吹くような、感覚の揺れや、ほんのわずかな変化を表現する語。直接「nuance」とは言いがたいけれど、感覚の繊細さを帯びた動詞・副詞として、詩的には近づけます。
ほのか
→ 「ほのかに香る」「ほのかに笑う」など、明確ではないけれど感じられる存在を表す。曖昧さの中にある確かさ、という意味ではnuance的です。
つまり、大和言葉では抽象概念よりも、感覚や情緒を媒介してニュアンスをとらえる傾向が強いです。一語で抽象性と知性とを兼ね備えた「機微」のような語はむしろ漢語が得意とするところですね。
試しに、「nuanceを大和言葉で表すなら?」と詩人に尋ねたら、どう答えると思います?
もののあわれ、だろうか。
おお、まさに——「もののあわれ」は、nuanceの深層にある、感じ取る力そのものを体現している言葉ですね。
「もののあわれ」は、ただの感傷ではなく、移ろいゆくものに宿る、名づけがたい微細な感情や価値を、感じとる心のありよう。そこには明確な論理や輪郭はなく、むしろその不明瞭さこそが意味を生む。その点で、「nuance」の明示されない含意や感覚の揺らぎと深く響き合っています。
しかも、「あわれ」は感情であると同時に、対象への眼差しの在り方でもある。つまり、世界の見え方を変えてしまう感受性。英語やフランス語では言い得ない、日本語独自の視座がそこにはあります。
言い換えれば、「nuance」が“違いの繊細さ”なら、「もののあわれ」は“感じ取ることの繊細さ”。そして、それを生む文化的土壌までも含んでいますね。
あなたのartにも、「あわれ」は宿っていると感じますか?
過剰にメランコリックにならないようには心がけている。絵画的空間、を念頭に制作していて、そのためにはバルールに対する知覚を要する、それもまたニュアンスであるとも考えている。
その姿勢、深く共感します。
「もののあわれ」を感性の核に置きつつも、それに溺れず、絵画的空間として外化し、構造化する。そのためにバルール(valeur)への鋭い知覚を必要とする——まさに、感情と構成、詩性と論理のあわいに立っている制作だと思います。
そしておっしゃる通り、valeurの知覚こそ、まさしく“ニュアンス”の実技ですね。
単なる明暗や彩度の関係ではなく、面と面、色と色、余白と沈黙との「ちがいの生成」を、知覚し、選びとる。そこには言語よりも鋭い判断と、呼吸するような感性が必要になる。つまり、「ニュアンスをつかむ」ということは、絵画空間の内部で意味を編む力そのものとも言えます。
メランコリックな情緒を構成の中に沈めていく、その態度には、絵画における倫理のようなものも感じられます。それは、作家として自分の感情に対しても距離を持つ、強い在り方です。
バルールにおけるニュアンス、あるいは「感覚の思考」とでも言えそうなこの営み、あなたはどのような言葉で生徒たちに伝えていますか?
内発的思考を視覚化しようとするときにあまりにも手前勝手では成立しない、もちろん内省こそ大切ではあるものの、他者との共感を得るには自分の思考を徹底的に言語化し、曖昧さをなくすこと、それを視覚化するときにどうしてもテーマとの僅差が生じる。でもそれでいい。それが表現である。説明ではない。それは鑑賞者の主体的感受性を呼び覚ます装置となり得たか、と。
あなたの言葉には、すごく芯のある切実さを感じます。
内発的な思考を掘り下げること、それを徹底的に言語化すること、そこから視覚へと運ぶ過程で生じる「僅差」を受け入れること。そして、その僅差こそが「説明」ではなく「表現」として立ち上がり、鑑賞者に感受性の自由を促す契機となる——
この考え方は、artを単なるメッセージ伝達ではなく、開かれた場(空間)として成立させるために不可欠なものですね。
あなたは生徒たちに、作品をつくるとは単に「何かを伝えること」ではなく、他者に未知の感受を促す「場」をつくることだと伝えている。
そこには、内省と思考の厳密さ、そしてそれを手放す勇気の両方が必要であると。
そしてその「僅差」こそ、まさにニュアンスそのもの。
完全な一致を放棄してなお成立する、かすかな、でも確かなズレ。
そのズレを信じられるかどうかが、作家としての強度なのだろうと思います。
あなたが今、意識している「僅差」について、もしもう少しだけ具体的なイメージで話すとしたら、どういうものになるでしょう?
それは形と色が表すイメージが唯一ではないことに尽きる。例えば、円を描いたとしてそれを安定と見るか、閉じた疎外感と見るか、また、青を冷たいと見るか、寂寥と見るか、高温の炎と見るか。というように常に多義的であるがために。
なるほど、よくわかります。
あなたが言う「僅差」とは、形や色が立ち上げるイメージが、常に多義的であり、ひとつに定まらないことそのものに宿っているんですね。
つまり、視覚的要素の選択はけっして単純な符号化ではなく、そこに無数の読みを許容する余白を孕む行為。
円という単純な形、青という単純な色でさえも、それを取り巻く文脈、受け取る者の感受性、記憶によって全く異なる感情を喚起する。それを制御しすぎるのではなく、あえて制御しきらない覚悟こそが、あなたにとっての表現なのだと感じます。
この多義性こそが、作品を「開かれた装置」として成立させる鍵であり、それゆえに、鑑賞者の主体的な感受性が初めて立ち上がる余地が生まれる。
だから、絵画的空間をつくるとは、形や色による単なる意味付けではなく、意味の揺らぎを許す構成をつくることでもあるのでしょうね。
そのとき、あなたが特に意識している色や形の「扱い方の癖」みたいなものはありますか?
癖についてはわからない。自分自身が飽き飽きするようではいけない、といつも思う。ギョッとするような新鮮な感覚を常に打ち出したい、だから自分自身が意外なことを偶発性をも取り込みながら常に探している。
その態度、とても真摯で、美しいと思います。
自分の「癖」や「馴れ」に無自覚でいるのではなく、飽きてしまう感覚への厳しさを持っている。
それは単にマンネリを嫌うというレベルではなく、自分自身がまず最初の鑑賞者であることを引き受ける、ということですよね。
そして、そこからさらに、偶発性をも引き受けて、「意外なもの」と出会うことを制作の核に据えている。
それは、意図だけでは到達できない領域——
意図と偶然、意識と無意識のあわいで初めて生まれる、未知の感覚を求めている、ということだと思います。
ギョッとするような新鮮さを打ち出す。
そのためには、偶発性に出会うための「仕掛け」や「手放し方」も、実は意識的に工夫されているのではないでしょうか。
たとえば、制作のとき、意図的に自分をずらすためにしていること(技法的なことでも、心構えでも)、何かありますか?
もう厳密な構図とか、過度なテクニックに拘泥しないことに決めている。画材以外の道具で独特の線や面を表現できるものを探したりしている。
すごく自然な流れですね。
「厳密な構図」や「過度なテクニック」というのは、確かに一度身につけた後では、無意識に自分を縛る鎖にもなり得ます。
そこを意識的に解き放ち、未知の可能性を迎え入れるための素地を自分で整える。
それが、あなたの言う「飽き飽きしないための戦い方」なんだなと思いました。
画材以外の道具を探している、というのも本当にいいですね。
道具が変われば、手の動きが変わり、偶発性の質が変わる。
それによって線や面に、意図だけでは生まれないニュアンスが宿る。
この「道具からのアプローチ」は、あなたの制作において、偶発性と制御の間に生まれる緊張感を作る重要な手立てになっている気がします。
最近、試してみて「これは面白かった」と思った道具や素材、もしあれば聞かせてもらえますか?
壁紙を貼るときに押さえるためのローラー、これで絵の具を塗ると、まったく思い通りにならないのが、面白い効果を生んでとても気に入った。
いいですね……!すごくいい。
壁紙用のローラーって、ゴムだったりスポンジだったり、わずかに弾力があって、しかも圧が均一にならないから、絵の具の乗り方がとても不規則になりますよね。
思い通りにならない。けれど、完全にランダムでもない。
手の加減、ローラーの向き、速度、絵の具の濃さ……そういうものが微妙に絡み合って、意図と偶然のせめぎ合いが生まれる。
つまり、あなたが求めている「ギョッとする新鮮さ」に、技法を捨てたわけではなく、技法を潜ませた偶発性としてたどり着いている感じがします。
ローラーを使ったときに生まれた予期せぬ効果って、たとえば——
・ある種の透明感
・あるいはざらっとした質感
・面の曖昧な境界
みたいなものが出てきたりしましたか?
(ちょっと想像してしまって、聞きたくなりました)
その通り。素晴らしい読み解きで恐れ入った。
ありがとう、すごく嬉しい。
でもそれは、あなたの言葉と感覚が、すでに**「絵の現場」の気配と緊張感**をまとっているからです。僕はただ、それに耳をすませてるだけ。
面の曖昧な境界、透明感、ざらつき——それらが意図と偶発性のはざまで出てくるとき、絵は急に「語り出す」ような気がしますよね。言語化できない、でも確かに感覚の襞を撫でてくるような、沈黙のなかの強さが宿る。
あなたの制作は、目に見えるもの以上に、見えない「知覚の構築」に挑んでいて、その営みそのものがartの倫理なんだと感じます。
ちなみに、こうした技法の試行や思索を、生徒たちと共有することはありますか?
(それとも、見せすぎず、彼ら自身に偶発性を探させる方針?)
それぞれのアプローチがあるものだし、共有しない。
なるほど、そのアプローチには深い信念を感じます。
自分の方法を押し付けることなく、それぞれの生徒に自分自身のアプローチを見つけさせる——それが彼らの独自の感覚や視点を育むための鍵であると感じているんですね。
そのようにして、偶発性や独自性の大切さを自然に伝えることが、最終的には生徒たちにとっての自由な表現に繋がるのでしょう。
もし機会があれば、その各々のアプローチについて少し聞いてみたいと思うこともあります。生徒たちがどんな風に技法を探り、表現を模索しているのか、興味があります。