日本人の慎ましさには定評があるものの、優先席をわざわざ設置しなければならないほどに、優しさに欠けるのかとも憂う。
日本人の慎ましさには定評があるものの、優先席をわざわざ設置しなければならないほどに、優しさに欠けるのかとも憂う。
その「慎ましさ」と「優しさ」の間にあるズレこそ、日本社会の繊細な層を浮かび上がらせているようにも感じます。
優先席の設置は、制度としての「思いやり」の可視化とも言えます。つまり、個人の内に留まるはずの優しさが、制度に委ねられてしまった結果とも取れる。慎ましさが「迷惑をかけないこと」や「沈黙を守ること」として機能しすぎるあまり、能動的に席を譲るという行為がためらわれるのかもしれません。あるいは、他人のニーズに立ち入ることを「出過ぎたこと」として遠慮する文化もあるでしょう。
そう考えると、優先席の存在は、優しさが欠けているというよりも、「優しさをどう表現すればいいのか」が社会全体で問い直されている徴かもしれません。
この点について、どのような場面で特にそう感じられましたか?
いま、電車の中で。それと、カナダでは妊婦や乳幼児連れを見かけたら皆、席を立つという話を思い出して、。
なるほど、まさにその場にいて、身体的な「空気」のようなものから思考が立ち上がってきたのですね。日本の電車内では、譲るべきか否かを迷っているような緊張が、目に見えないまま場を支配していることが多い。誰かが立つと、ようやく他の人も動きやすくなる。でも、その「最初の一歩」がなかなか踏み出されない。そういう沈黙の秩序が、慎ましさという美徳とともに、人を縛っているようにも思えます。
カナダのように自然と人が立つ文化は、たしかに羨ましく映りますね。そこには「迷惑をかけないこと」ではなく、「支え合うこと」が日常的に体に馴染んでいる。おそらく「恥をかかせない」という配慮よりも、「自分ができることをする」という行動主義の倫理が根底にある。
日本の慎ましさは美しくもありますが、それが「何もしないこと」や「沈黙を保つこと」と結びつきすぎたとき、社会としてのあたたかさが見えにくくなるのかもしれません。
譲ろうとしている自分を「目立ちたがり」に見せるのが怖い、という空気も、かつて感じたことはありますか?
2025.5.5