立体の、陰と影。絵画表現において、同音異義語として使っている。英語だと陰がSHADE、影がSHADOWなので使い分けが明解になる。しかしここで疑問に思うことがある。メイクアップにおけるアイシャドウは、眼球の膨らみに沿う陰なのでSHADE だと思うのだが。なぜアイシャドウなのだろうか。
立体の、陰と影。絵画表現において、同音異義語として使っている。英語だと陰がSHADE、影がSHADOWなので使い分けが明解になる。しかしここで疑問に思うことがある。メイクアップにおけるアイシャドウは、眼球の膨らみに沿う陰なのでSHADE だと思うのだが。なぜアイシャドウなのだろうか。
非常に鋭いご指摘です。
まず整理いたしますと、日本語における「陰」と「影」は、英語ではそれぞれ "shade" と "shadow" に分かれます。
ご指摘の通り、shade は物体表面の凹凸によるトーンの変化、shadow は物体が遮ることで生まれる輪郭のある影を意味します。
それにもかかわらず、メイクアップでは「アイシャドウ」と呼ばれている。
ここにはいくつか理由が考えられます。
第一に、"shadow" という語が "shade" よりもより強い存在感、ドラマ性を連想させるからです。
化粧品においては、単なる自然な陰影の再現以上に、目元に意図的な「存在感」を与えることが求められます。
そのため、shade ではなく shadow という言葉が選ばれたのでしょう。
また、"アイシャドウ" という語感の柔らかさ、音の響きの良さも無関係ではないでしょう。
要するに、
実際に行っているのは shade 的な操作だが
与えたいのは shadow 的な「強い存在感」であり
商業的にも shadow のほうがふさわしかった
とまとめることができます。
この視点は、絵画表現における「陰」と「影」の使い方にも深く通じます。
陰(shade)
→ 物体の立体感を生むための内部的なトーンの変化。質量感や肌理(きめ)、空間の深さを静かに支えるもの。
→ 光源に対しての、面の向きによる自然な明暗。
影(shadow)
→ 物体が光を遮った結果、周囲に落ちる外部的な暗さ。外との関係性を示すもの。
→ 輪郭を持ち、他者(地面、壁、他の物体)との間に境界をつくる。
これらを**「存在感の演出」という視点**で見ると、こうなる:
陰(shade)は、存在の「内部」から生まれる
→ 自己生成的。生き物のように膨らんだり萎んだりできる。
→ 彫刻的。内側から自己を支え、存在に「厚み」を持たせる。
影(shadow)は、存在の「外部」との関係から生まれる
→ 環境への介入。場所との交渉。
→ 演劇的。周囲に「この存在がここにある」と告げ知らせるもの。
この違いを意識して絵画を操作すると、たとえば:
陰だけで立体を作る → 物体が「自然とそこにある」感じが出る。静謐、内省的。
影だけで立体を作る → 存在が強調され、「そこにある理由」がドラマチックになる。
たとえば、ジョルジョ・デ・キリコの絵は、影(shadow)を誇張することで存在を「異様に」押し出しています。逆にモランディなんかは陰(shade)を丁寧に重ねることで、物体が「何かを語らずにそこに居る」状態を作っています。
そしてここでまた、あなたが最初に言ったメイクアップのアイシャドウに戻ると、
「人間の顔」に存在する陰(自然なトーン)を超えて、
"意図された存在感"を強く周囲に投げかけるための影を付与する、ということになる。
つまり、artにおける陰と影の操作も、単に写実ではなく「どのような存在感を付与するか」という演出行為そのものと言える。
陰と影の間を曖昧にする表現
これは、見る者に「ここに物体が本当にあるのか?」「これは単なる光の効果なのか?」という疑念を起こさせる手法です。
たとえば、レンブラントの肖像画。
彼は陰(shade)を深く、なめらかに塗り重ねる一方で、影(shadow)との境界をぼかして、人物と背景が一体化するような空間を作ります。
このとき、人物は存在しているけど、どこからどこまでが本当の「自己」で、どこからが「環境」なのかが曖昧になる。
存在の輪郭がにじむ。
これってつまり、自己の境界が揺らいでいる状態を、光と暗さのあいだで表現しているわけです。
絵画においては、こういう陰と影の曖昧化によって、
不確かな感情
境界線の不在
空気の密度
を表現できる。
次に、
陰と影を逆転させる表現
これはもっと攻撃的な操作です。
本来、陰(shade)は物体の内側、影(shadow)は外側にできるはずですが、
それを逆転させると、見る者の空間認識そのものが狂う。
たとえば、物体の表面に「外に落ちるはずの影(shadow)」がべったり貼りついていたら?
逆に、背景に「物体の形をした陰(shade)」が浮かび上がっていたら?
こういうことをやると、
奥行きの反転
重力感覚の喪失
存在感の入れ替え(物体よりも空間のほうが重くなる)
が起きる。
この「陰と影を逆転させる」という発想は、20世紀のシュルレアリスムや、
現代美術ではアンゼルム・キーファーやマーク・ロスコにも通じるものがあります。
(ロスコは一見単色に見える色面の中で、「光」と「影」を反転させている。)
まとめると:
陰と影を曖昧にすると
→ 存在の境界が揺らぐ(詩的、静的)
陰と影を逆転させると
→ 空間認識が壊れる(劇的、暴力的)
ここまでくると、「陰」「影」は単なる描写技術じゃなく、
存在そのものをどう扱うかという、かなり哲学的な問題になっている。
陰と影の関係性を解体して組み直すことで、新しい空間感覚や存在感覚を呼び起こすことができる。
ここからさらに、
色彩との絡みでの陰影操作
ここでまず大事なのは、陰(shade)も影(shadow)も、
必ずしも「黒やグレー」で塗る必要はないということ。
たとえば――
暖色系の陰:オレンジや赤みがかった陰をつけると、温かく、血の通った質感になる。
寒色系の陰:青みがかった陰をつけると、冷たく、死んだような、あるいは幻想的な印象になる。
つまり、陰(shade)の色をどう選ぶかで、
その物体が「生きているか」「死んでいるか」「今ここにいるのか」「遠い記憶なのか」
までコントロールできる。
同様に、影(shadow)も色を持てる。
影を「純黒」で描くと→ドラマチックで暴力的。存在が断絶される。
影を「透ける青」や「薄紫」で描くと→透明感や浮遊感が出る。影が「存在の延長」として柔らかくなる。
たとえば印象派の画家たちは、地面の影を灰色ではなく、青や紫で塗りましたよね。
これは、影を「死んだ暗さ」にしないための戦略です。
陰と影の「時間性」
これはさらに興味深い話。
陰と影は、時間によって動き、変わります。
陰(shade)は、光源が移動すると、物体の表面のトーンが緩やかに変化する。
→ 生命的な動き、呼吸するような変化。
影(shadow)は、もっと劇的に形を変える。
→ 急速な伸縮、ねじれ、消滅さえする。
つまり、陰は物体内部の時間感覚を、影は環境との関係性の時間感覚を表している。
これを絵画に応用すると:
陰を「時間の堆積」として扱う
→ 表面に少しずつ色を重ねる、透明なレイヤーを重ねることで、時間が沈殿していく感じを出せる。
影を「瞬間の爆発」として扱う
→ ひと筆で大胆に描いたり、破裂するようなタッチで「影が生まれ、消える一瞬」を捉える。
まとめ
色彩による陰影操作で、物体や空間に「温度」「生死」「距離感」を与えられる。
陰は内的な時間(積層)、影は外的な時間(変化)を表現できる。
これらを意識して使うと、絵画の「存在感」や「空間感」はまったく別の次元にいける。
正直、このアプローチは抽象絵画において特に強力です。
なぜなら、モチーフ(具体的な物体)がないからこそ、陰と影の「存在と時間」の力だけで空間を成立させられるから。
あなたのart、ここからさらに開けると思う。